武州熊谷で「蘇芳染め」の技を習得した吉村平兵衛が弘化2年(1845)高崎相生町で開業、屋号を「田村屋」とし高崎を代表する紅染専門工場として工夫を積み重ねました。3代目平七は新しい化学染料を使った「猩猩紅染」を研究し4代平七は明治18年色落ちしにくい「堅牢紅染」を完成し高崎絹の名を高めます。さらに明治22年紅板締めを手がけ36年大阪第5回内国博覧会に糸好二重板締めを出品しています。しかし残念な事にこの華やかな紅板締めの技術は、型染めの興隆につれて徐々に生産が下がり昭和初期には途絶えてしまいました。高崎絹に栄誉をもたらし、染色組合長や商工会議所の役員として活躍した平七も時代の波に逆らえず昭和7年に87年にわたった吉村染工場の歴史に幕をおろしました。上州高崎の絹や吉村家の業績等いろいろな帳簿文献が残されており たかさき紅の会では生理研究を重ね 「よみがえる紅 たかさきの絹と染め工場」の冊子1000部にまとめ 平成13年刊行しました。
高崎の紅絹と紅板締め染め たかさき紅の会 吉村晴子
赤は火の色命の色として神秘的な力を持ち、紅色の魅惑的美しさは多く衣裳に使われてきました。浮世絵に描かれる女性の襟もとに袖口に、裾先からこぼれる無地や細やかな紋様の紅の色は艶めいて、日本美の深い情趣を感じさせます。地味な彩りの表着と紅染めの間着や襦袢をとりあわせて装い、見えないところに驚くほどの美をいれる美意識を生み出しました。艶やかな光沢の紅絹は身に付けて心地よく保温効果ありとして肌近く身を守り、また紅白絹は祝福や願いの色として人々の暮らしに深く愛好されました。染織史 服飾史には裏地 裏絹の流れは殆ど位地ずけされてなくて残念に思います。
私の家は昭和の初めまで北関東一の紅染め専門の染工場で、祖父四代吉村平七は堅牢紅の研究に励みその覚書や、紅絹染め取引の大福帳、工場票等の帳簿類と紅板締めの型板などの資料が残つていました。4代平七が吉村家の記録を記した{感想録}「備忘録」や様々な帳簿の文字から、携わった人々の心意気が伝わってまいります。
平成13年ころから群馬県繊維工業試験場の新井正直氏らと共に吉村家資料の調査を進め、私が主宰している「染め工房はるる」でろう染め草木染めをしていたメンバーの賛同を基に、たかさき紅の会を立ち上げました。
平成17年に「群馬県文化の芽」の指定をうけて文献考察をまとめた[よみがえる紅 高崎の絹と染工場]を発刊。残されていた型板や紅板締めの間着の展示会の開催や広報活動のなかで、たくさんの反響を頂き、昭和初期を最後に途絶えた幻の紅板締めといわれる技法の復元を強く思い立ちました。
特に紅板締めの型板が揃っていて京都から離れた絹生産の地元である群馬高崎に残されていたことは、たいへん意味あるということでした。ぜひとも復元しようということになりました。
昭和7年に吉村染工場を閉鎖してから4代平七は隠居して、生活様式も変わり孫娘の私も同居していながら、盛業当時の染工場のことや染めの話を具体的に殆ど聞いておらず、今となってまことに口惜しく迂闊なことでした。
復元の意義と縁は充分に承知しての、熱意のみの取り組みとなりました。紅の会では紅板締めの技法の復元にあたり、京都の紅板締めの研究報告や解説書 京都の染業者「紅于」の子孫からの聞き書きなどの資料を読み、昔の間着や布を収集し準備を重ねました。
紅于の型板が大量に収集されている千葉県佐倉の国立歴史民族博物館へゆき、文化財資料として研究保管されている状態を見学しまして、在野民間の高崎に残っている型板の自由な活用の意味を確認しました。紅板締めに関する僅かな文献と残された型板を頼りに、試行錯誤を繰り返しながら現代に再び紅板締めをよみがえさせることに挑戦いたしました。
上州の生絹 薄絹
上州群馬は古くから養蚕と絹織物の盛んな地域として知られ、日野絹、鬼石絹など上質な絹織物がつくられていました。高崎周辺の西上州地方では、養蚕から製織までのすべての工程を一貫して行う方法で、農家の副業として繭から引いた生糸や玉糸を原料に、手織り(いざり機)で織られ、精錬や染色などの仕上げ工程は残したままの平織りの生絹や太織が生産されました。繭から引いた糸は硬く、緻密に織ることが難しく管に巻いた緯糸をそのまま水に漬けて置き、織り込む経糸も水に付けて打ち込みました。、このままでは硬い生地で色艶も悪く精錬加工してようやく絹の柔らかさと艶がうまれます。
生絹は繭の品質や糸の種類により、節のない上等な糸を使った本耳絹、糸好絹、、また節があり太さの不均一な糸を使った小節絹、散好絹などの呼び名にわけられ、それぞれに特徴がありました。主に裏絹として、赤く染めた紅絹や紅板締め或いは花色等の青や紺に染められ、また白生地で使われるものも多く、着物の裏地や胴抜き着物、襦袢などの表地として使われました。
通常の着物の数分の一という向こうが透けて見える薄さの絹は肌に触れてとても暖かく、軽く、柔らかく、重ね着に佳い素材でありました。こうした製品が交通の要所である高崎に集められ、元禄年間に開設された絹市場で売買されました。五日と十日の月六回の市で町も賑わい「お江戸見たけりゃ高崎田町」と唄われたといいます。仲買商、買継商の取引きをへて品質を保ち、関東をはじめ関西、東北へ流通してゆきました。
吉村染工場・紅絹
高崎は関東平野の北西の端にあり榛名 妙義山から流れ下る良質な水と、豊富な生絹の取引により、精錬染色加工の染色業が発達しました。職人集団の定着により元紺屋町 中紺屋町 新紺屋町の町名が今も残っています。
武州熊谷で「蘇芳染め」の技を習得した初代吉村平兵衛が弘化2年(1845)高崎・相生町で開業、屋号を田村屋としました。当主は代々平七を名乗り、紅染の専門工場として工夫を積み重ね、明治8年従来の茜 蘇芳 紅花の植物染料に代わる化学染料を使った「猩猩紅染め」の研究を始め2年後第1回内国博覧会に出品しています。明治18年には色落ちしにくい染色技術「堅牢紅染め」を開発し数年後には京都にも勝るとも劣らない染となり高崎絹の名を高めます。
明治26年には煉瓦造り3階建の工場の前に絹問屋から受けた山のような白絹をつみあげた職人の姿がみられる写真が残っています。吉村染工場の取引相手を見ると、明治13年頃高崎の絹買継商・染絹卸商の和泉仙等10軒、明治45年には十数軒になり、大正元年の染張物控え帖では1日で3280疋の紅絹の納品が記されています。確かな染色数量のわかった中で一番多いのは大正元年52797疋となっております。
紅絹の染め工程は、白絹を灰汁練といい灰の液を入れた釜で煮て不純物を除去し、水洗いから張りに移り乾燥する精錬加工ののち 数回にわたる灰汁漬けを3日かけて施します。染風呂に酸性染料をいれ染付けをし蒸気熱で伸ばして加工します。灰汁の製法と漬け方、蒸気の加工は吉村染工場で長年にわたり研究して得た技術でした。赤に少し黄味のかかった濃厚な緋色の紅絹は高崎を代表する染物となっていました。
新たに輸入された化学染料を取りこむため4代吉村平七が中心となり明治45年(1912)高崎染業組合は県技師を招き技術講習会を開催しました。市の援助のもと染色研究所をつくり会報を発行し、大正5年(1916)には高崎絹市場において一市四郡連合協議会主催の展示会が盛大に開催されました。市部出品352点、郡部112点生絹太織協同組合より100点余の参考品も出品され、大部分は絹布類で紅染、白張、友禅、江戸褄、紋染など。審査員に高崎の有力絹問屋があたり市役所で授賞式がおこなわれました。この頃高崎の問屋が京都に頼んで染めていた金額が70万円に達していたといわれ、少しでも地元の染工場の需要を増やすことを目指して懸命に活動していました。紅染めは日清戦争後に全盛期を迎え、日露戦争あたりから次第に衰微し大正期には再び流行しました。、大正4年頃欧州大戦での驚異的な染料の高騰があり、昭和になり統制経済、洋風化など時代の変化に伴い、昭和7年(1932)に創業から87年にわたった吉村染工場の歴史に幕をおろしました。
吉村染工場の紅板締め
紅板締めは江戸時代まで、京都の染色業者23軒が株仲間をつくり独占していました。しかし、幕末期の流行の変化による紅板締め業の衰退と、明治維新後の社会体制の変化で、その道具がそれまで権利を持てなかった染屋に渡るようになったと考えられます。吉村家に断片的に残された帳簿類の中には、大量にあった筈の紅板締めの型板とその入手先を把握できる記述は見あたりませんが、高崎で手がけたのは吉村染工場だけでした。
明治22年、同じ模様を対象に彫った二枚の板の間に薄い絹を挟んで染める紅板締めを開始し、明治36年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会に「糸好二重板締め」を出品しています。博覧会の解説書では板締めの生産数量12000疋、価格平均4円30銭、販路は各府県と記載があります。その8年後の群馬県主催一府十四県聯合共進会出品願書には「小節素板締」2500疋 染代金は38銭となっており、染代受取帳にも板締め染め代金が記帳されています。
型板
吉村染工場には7種類の型板が残されています。12枚一組の「飛び鶴」「牡丹に蝶」「菊に籬」「菊花」「菖蒲」「籠目」の模様の板がありました。
その他に彫りかけ途中の「麻の葉撫子に丸が」3枚があり型板の製作の過程が推測されました。この柄を複写し朴の木で新たな平成の型板の彫りを、平成18年4月太田市の市川栄沙氏に依頼しました。模様を彫る彫刻刀も手造りし彫りの深さが均一になるよう苦心して、半年かけて上下の片彫り2枚と中板両面彫りを2枚の4枚組みの「麻の葉撫子に丸」の新板が完成しました。
更に板に浸透した染液によって、白く抜ける部分の汚れを防ぐため、表面に防水ための漆がけを長野の茅野恒雄氏に依頼し10月に完成させました。
新しい型板が手に入ったことにより残されていた旧型板も資料ではなく実際に使用して、復元させようと決めました。旧の12枚組みの型板の木口には山形に溝が付いており側面にも溝があって、生地を挟む際に模様を正確に重ね型板のずれが極力少ないように棒状の道具をあてて、板を正確に重ねたと思われます。型板の角は丸く摩滅しており相当使われていた板のようでした。また割れ目が入って痛たんだ部分を麻糸や金物で修繕した跡が諸所にあり、仕事道具としての手触りを実感いたしました。
締め枠の製作
絹を挟んだ型板を入れる締め枠は残っていなかった為、古い楔で打ち込み締める形のものと、ボルトとナットを使う新型と2種類を新しく製作しました。復元にあたり「京紅板締め道具の調査報告書」の実測値を元に、欅材を使い型板が3組も収まる大型のものと、1組用の小型のものを製作。また現代使いよいようにと考えたボルトとナットで締める形の新型を2基つくりました。復元のものは楔を木槌で打ち込む締め具合の力の加減が難しくて、何回も試みましたが、その後には操作性がよい新型を利用しました。
染め白絹地
型板は並幅で23cm程度の長さの板に模様が彫られていて、そこに白絹地を8枚重ねて折りたたみ更に板を上に置いて12枚積み上げる形になります。復元染色のために初めの頃は戦前の着物に使われていた胴裏絹や洗い張り済みの古い絹で試作をはじめました。
そして現在市販されている裏絹(一反280g程度)や、「ぐんま200」や「世紀21」の群馬産の白絹など上等で少し厚地の絹の試作を試みましたが、締め具合を工夫しても染料液の浸透が困難で染むらが出来たり、白い模様がにじんでしまい上手くいかないことが多くありました。
残されていた昔の間着の手触りをあらためて触ってみますと、とても薄いことから、新たに広幅の羽二重(目付け;6匁。一反112g)の精錬済みの白絹を特注して使用して試みた結果、模様をはっきりだせることができました。この薄い絹は群馬県内では織られておらず絹小沢(株)により福島県の織元より調達しました。
染料
明治20年代になると化学染料による染色が安定し、吉村染工場では24年に東京日本橋の柴田染料店へ桃色、緋色の染料を注文した買付証があります。その後明治末から大正にかけての帳簿には、購入量も回数も次第に増加し染料の種類も多く記載されており、取引の染料会社や染料店の名刺を貼った手帳が残されています。
復元に際して赤色(酸性染料アシッドミーリングレッドRS125%)黄色(カヤノールイエロウN5G)を使用し、混合の色合いを数回にわたって試みて、5:5の割合で紅花のような黄味がかった紅色を基準とました。昔の間着をみてもさまざまな色合いがあり、細かい柄は紅色で、模様が大きくはっきりした大正頃のものは赤みの強い濃い色で染められています。
紅板締めの手順
艶やかな間着の美しさや紅色の魅力に惹かれた紅の会のメンバー10人余の方々と、群馬繊維工業試験場の新井正直氏を迎え、平成18年10月に新しい型板の完成を待ちかねて、吉村染工場の跡地にある「染工房はるる」にて紅板締めの復元作業を始めました。「型板に白絹を挟み締めやぐらに架けて、赤染料を柄杓にてかける」という簡単な記述を頼りに、その後18回にわたる試作は、紅の会の皆がわが事としてその度に問題点を考え発想し、自由に発言し工夫を重ねました。
1 型板を水に浸す。乾燥している型板に充分水分をふくませる。5日間くらい。反りを
なくし板に弾力が生まれる
。
2 一疋(12m)の白絹を8重に折りたたんで型板に挟むやり方の具体的な記述はな
く、薄く柔らかい絹をきれいに挟むことは予想以上に手がかかりたいへん難しくて、
昔どのような作業状態であったのか切に知りたいと思った。押さえの金棒や台など
調達して、二つの方法を試みた。
*折り返し挟み 生地を丸棒に巻き解きながら、型板の上で角を利用してL型の金具
をあて8回折り重ねる。その上に型板をのせこれを繰り返す。生地に皺やたるみが
でないようにし重ねた型板もずれないように注意し2・3名の手が必要であった。
*巻畳み挟み 生地を必要な長さ(型板巾+厚み+枚数×8)に巻いて、上下に丸棒
をいれ引きながら型板の上で折り畳みをくりかえす。8枚に重ねた絹がずれないよ
うに脇を糸で縫い留める。生地を巻く作業に手がかかるが8枚の布なので型板にの
せるには手早くなる。このやり方では型板の枚数が多くなれば長尺になり扱いが難
かしく、昔はドラム型に4重に巻き取った方法ではなかったかと考えられる。
3 防染糊 型板に生地を挟む際に、表面に姫糊を塗ったとされているが濃度などは不
明なので、米粉ととうもろこし粉で作った姫糊粉5gを200cc程に溶かし丸刷毛を
使い模様面に塗った。後日、模様面の白色を保護するためにもっと濃い糊であった
ような京紅于の子孫の談話の記述があった。
4 染色の方法
生地を挟んだ型板を締め枠に入れて、楔でこの枠を強くしめる。新型木枠の場合は
ナットをスパナで強く締める。全体が均等に締まるよう、それぞれ4箇所を徐々に
締めてゆくが、男性のたいへん力のいる作業である。この枠を横に寝かせ、型板と
生地の上から湯を充分掛けて、余分な姫糊を流し更に木枠を締め直す。
水18リットル 赤 黄のそれぞれ6g程度いれ(求める色味や模様による)温度をあげた
染液を り、柄杓で掛けて染める。木枠を回転させながら、また掛ける染液の量を一定にし
染むらを作らないようにする。締め枠を揺すって斜めから模様溝に溜まった染液を
流し出るようにする。型板の外に出た生地の部分は別の絹で覆って染料液を多めに
かける。染液を加熱し温度を次第に上げながら、この18リットルの液を合計8回かける。
7回めに酢酸2ccを8回目に5ccを入れ色止めをした。この作業も詳しい記録は無
いので、熱心に3〜4時間掛けて疲れが出るので止めるという推測で念入りに行っ
たが、後の紅于の談話から工場では1時間弱で次々と木枠を替えて仕事をしたよう
であった。染色後、型板と木枠によく水を掛けて余分な染料を丁寧に洗い流し、締
め枠を外して生地をはさんだまま型板を取り出し、水を張った桶に浮かべ、型板
を一枚ずつ外し、生地を取り出して水でよく濯ぐ。この瞬間が赤と白の対比が鮮や
かに出ているか、滲みは無いか、そめ斑は無いかの成果のでる一瞬であり大きな悦
びの刻となる。濯いだ絹地を綿布に巻き込み水分を取り、伸子を張って乾燥させる。
その後蒸し器で1時間の蒸しをして堅牢度を高めた。
紅板締め復元を成し遂げて
心に沁みる赤に励まされて一日がかりの試作15回めにて「飛び鶴」12mと「菊に籬」12m「丸に撫子」7mの紅板締めの完成品を手にすることが出来ました。多くの方のご指導とご協力を感謝し、その成功を共によろこびました。丹後縮緬の黄,紫の草木染めに新しく染めた紅絹裏を付けた表着物と復元した紅板締め3模様の間着の3組を仕立てて、その成果を平成19年5月高崎高島屋にて「紅絹の美 幻の染め・紅板締めとその復元」展にて発表しました。その後ラジオ深夜便 群馬テレビの番組等とりあげていただき、また群馬県立女子大のカリキュラムにて若い世代への実習を続けております。
先人から残されていた物が、その価値を見出して受け継ぐ精神と人の行動により、次に繋がってゆきます。白と赤の鮮やかな彩りの紅板締めに出会えて 心と体を躍らせながら感動をたくさん頂いております。
たかさき紅の会 吉村晴子
群馬県高崎市
e-mail:
beninokai@beniitajime.jp
Webサイト:
http://beniitajime.jp/